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[34] 孝烈閣(ヒョヨルガク)

この孝烈閣はもともと全羅南道・順天地域にあったものですが、韓国民俗村の建設に伴い、原形のまま現在の場所に移設されました。 孝烈閣の中には、他の孝烈閣に見られる「貞烈門」の扁額(板額)は掲げられておらず、 代わりに「黄孝婦紀行碑(ファン・ヒョブ・キヘンビ)」という縦書きの碑が設置されています。このことから、この建物は実質的に「黄氏孝烈碑閣」と見ることができます。


黄氏は慶州金氏の家に嫁ぎ、金瑽柱(キム・チョンジュ)の妻となった人物で、長水黄氏、すなわち名宰相・黄喜(ファン・ヒ/号:厖村)の子孫にあたります。 黄氏婦人は嫁いだ後、舅姑に対して誠実に仕え、孝行を尽くし、誠心誠意をもって奉仕したため、一族の人々は皆感銘を受け、村中から称賛の声が絶えなかったと伝えられています。 その後、不幸にも舅と夫が病に倒れ床に臥すようになると、彼女は豆水(スクス)で食事を整え、自ら味見をしながら看病し、病の回復を願って天に祈りを捧げました。 しかし願いは叶わず、舅と夫が臨終を迎えようとした際には、自らの指を切って血を口に含ませ、3日間命を延ばしたといわれています。
このような孝行と夫に対する忠義の行いが知られると、郷里の人々はその行為を称え、碑を建てました。碑文は正三品・通政大夫・順天郡守・秘書院丞の慶州金錫九(キム・ソック)によって撰文され、 順天の儒林代表である張琠基(チャン・ジョンギ)が紀行碑建設推進委員会の責任者(有司)として建立に尽力しました。 碑の本体は黒石(オソク)で作られ、方柱形をしています。正面には「孝婦孺人長水黄氏之紀行碑」と刻まれており、側面には「黄孝婦紀行碑陰記」として、黄孝婦の行状が詳細に記されています。